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ライティングにスランプはあるのか?〜1年間の執筆ブランクで気がついたこと〜

昔から、賢人によって人間を特徴づけるさまざまな言葉がありますが、人は「読書し表現する(書く)動物だ」と言っても間違いではないでしょう。

そうした中で、今日では特に”書く=アウトプット”という行為は、ずっと身近なことになっています。

かつては電話で済ましていたようなこともEメールを利用するようになり、ブログの登場、様々なソーシャルメディアの普及、さらにはスマートフォンによるメッセンジャーでのコミュニケーションなどが日常的になったことで、より一層を書くという行為がだれにとっても特別なことではなくなりました。

文章がうまくなりたいと、願わない人はおそらくいないのではないでしょうか。

写真や動画の撮影でもそれは同じでしょう。それらは、以前であればカメラやビデオカメラを持っている人たちに限られていました。今では、それらを持っていない、あるいは必要としなくても、携帯しているスマートフォンでの撮影が手軽なことになっています。カメラやビデオカメラを必要としている人は減少していますが、逆に写真に親しむ人はむしろ増えて、うまく撮影できるようになりたいと思っている人は多いのではないでしょうか。

この1年間、私自身が書かないことで気がついた重要なこと。それは「書く」ことについてです。

前回のブログで、“広報は企業活動のすべてを言語化できるプロ”であり、“企業の意義と価値を伝えるスペシャリスト”であること、そして広報パーソンはプロのライターなのだという著者の言葉を紹介しました。

今回のテーマについて気づきや考えたことがあり、書くこと=アウトプットが不可欠なマーケティングコミュニケーション関係者になにがしかの気づきになればと思い、ここに備忘録として残しておくことにしました。

もしも、読んでくださる方々にヒントになるようなことがあれば嬉しく思います。

執筆ライティングにもスランプはあるか

2021年3月から22年3月までのおよそ1年間、私は、自身のブログを含め、シェイプウィンでの記事執筆も休止していました。さらに他のソーシャルメルメディア(Facebook、Twitter、LinkedInなど)への投稿からも遠ざかっていました。

これほど長きにわたりソーシャルメディアに触れず、書かなかったことは、18年にわたる私のソーシャルメディア生活の中でもはじめてのことです。

スポーツ選手のスランプというのは誰でも知っていますが、書くことにもスランプはあるのではないかと私は思ったのです。

ブログ休止から半年ほどたった昨年10月、ノーベル賞受賞のニュースに接し、それについての記事を書こうとしたとき、まったく書けない状態に陥ってしまいました。数十行書き出してから、その先へとまったく進めなかったのです。

なにをどのように伝えるべきか、全体を構成し自分の論旨や考えをうまく文章にすることができず、そのまま時間だけがすぎてしまいました。書こうとする気持ちだけが空回りし、脳が動いてくれません。

そのとき、私はきっと書くことのスランプに陥ったのだろうと思いました。

インプットとアウトプットの関係性

パソコンとノートでライティングをする女性

そうした事情もあり、書く=アウトプットを休んでいたことでむしろさまざまな気づきがありました。

読書術と同じくらい、あるいはそれ以上に文章術を指南する本も数多くあります。

小説の書き方からエッセイ、最近ではグーグルに気に入られるような表現や言葉を文中に盛り込む方法、つまりウェブやブログ、SNSなどでうけるあるいはバズる文章の書き方など、そのノウハウを解説したものもが増えています。

またパブリックリレーションズ(PR)の重要性が高まった現在では、プレスリリースの書き方や実際のプレスリリースを集めた本まであるほどです。

そうした気持ちは痛いほど理解できます。

それがどのような種類の文章であれ、投稿した人であればひとりでも多くの人の目に触れてほしいと願う気持ちもわかりますし、アフィリエイトで稼いでいる人であればアクセス数がそのまま収益に影響するのでなおさらでしょう。

今ではコンスタントにビジネス書についての書評エッセイを書いている私ですが、いまでも読書が得意ではないし読むのも遅くて悩んでいます。またそれ以上に、書くのも決して早いほうではありません。30分や1時間ほどでブログ1本を仕上げる人の話を聞くと羨ましいほどです。

読書(インプット)も、習慣化されて本の世界に自分が望んでいるようなスピードで読めるようになるまでには、人によって違いがあるにしても時間がかかります。また、長らく読書をしていないと、以前と同じ早さで読むことが難しくなります。

書くことも同様です。書くことは読むより時間がかかりますし、読書とは違い、その休止期間がわずかであってもそれを元に戻すのは容易ではありません。

若いころはインプット重視で、知識と経験を積んだ後にアウトプットする人が多いでしょう。私の経験では、それは確かに間違ってはいないのですが、早い段階からアウトプットを習慣化することを私はお奨めします

成人するまで表現する(書く)ということをしなかった人は、社会人になって書く必要性に迫られたからといってもいきなり書けるようにはおそらくなりません。そうした悩みを抱えている人たちのために文章術を指南する本が数多くあるわけです。

もとより、知識も経験も未熟であれば、文章力も足りませんし書く内容も未熟さを十分に自覚していてもそれは当たり前のことなので致し方がありません。書く訓練や練習だと割り切ることが大切です。

とにかく、書くということが重要なのです。そうしたなかで思考力や表現力が鍛えられるからです。

私は小学生のころから、書くということがどちらかといえば日常的なことだと自覚していました。したがって少しくらい休んでも、書くことの感覚が鈍くなったり衰えたりすることはないと高をくくっていましたが、実はそれが過ちだったのです。

スポーツで考えればわかりやすいでしょう。練習の積み重ねの量が、上達するためには欠かせません。また試合を休んだ期間が長いほど、元の状態に戻すまでは時間もかかります。

読書を練習だとするならば、書くことは試合で成果を出すことだといえます。休んでいても練習を始めれば感は取り戻せますが、試合で結果を残すようになるまでには時間を要します。

読書と書くことは、スポーツと同じようにその人にとっての精神自体の運動だということに、あらためて気づかされたことが私には重要なことです。

人が読書し、書く理由

ソファーで読書する男性

人が、ある本を読む理由はその人それぞれでしょう。日ごろ悩んでいたり解決したいと思っていたりすることに具体的な示唆あるいは解答を見つけたい、わからないことを知りたい、新聞や雑誌の書評欄、世間でベストセラーの本だから、同僚や友人が話題にしていた、書店のフェア、新刊コーナーあるいは電車の中吊りで偶然にも知ったからなどさまざまです。

特にビジネス書であれば、仕事にすぐに役立つ情報やノウハウを取得したいとおいう切実さが要因でしょう。

DX社会が加速する中で、それまでの知見だけでは対応あるいは対処しきれない状況が起こり、つねに新しい情報と知識の習得が必要とされる時代に私たちは生きています。

情報や知識のインプットとアウトプットは、誰でもが車の両輪だと認識していることです。今日のような常時接続の社会では、人はなにかの情報に常にさらされて無意識的にでもインプット状態になっています。

しかし、アウトプットはそうはいきません。なぜならば意識的に行う必要があり、情報を整理しながら思考し、さらには言葉として表現して他者に伝えるというやっかいな手続きが必要で、インプットに比べればずっと時間にもかかりますし文章としてうまく組み立てる創意工夫も求められるからです

さらに自分の文章スタイルで書けるようになるまでには、かなりの試行錯誤を繰り返さなければなりません。

ライティングは「終生の修練」

ライティング・メモする手元

そうして1年ぶりに文章を書いたのが、書評エッセイ『減速思考〜デジタル時代を賢く生き抜く知恵』(著者:リチャード・ワトソン/徳間書店)です。

私はなにごともマーケティング思考や視点で考える癖をつけています。私が読書し書くのは、自分がこれまでに得てきた知識と経験したことをもとに、現時点で考えていることについて、自分自身で得心するためです。

したがって、ある意味では自分に向かって書いているのですが、それと同時に他者に向けて書いているともいえるのです

私が文章を書くのは、他者に伝えることでヒントや気づきとしてもらえればさらに嬉しいからです。おそらく、それは書くことに生業にしているほかの人たちにも共通していることだろうと思います。

1年のブランク後、インプットよりアウトプットにおいて、さまざまに思考しそれらを自分なりにまとめる(表現する)という一連のプロセスを経験したのが、上記ワトソンの著書です。

230ページほどという新書版なみの分量に、それまで思いもしていなかった以上の時間と労力を要し、文章として表すことに苦労する自分に否応なく気づかされました。

この1年のあいだブログ執筆をやめていたことをつうじて、やはり持続的に書くということが大切なことだと再認識しました

人は知識を得て経験を積むことで賢くもなるのですが、一方それによって自分の限界を知ってしまうこともあるのです。そのことが、なにかに挑戦する気持ちをむしろ削いでしまう結果ともなります。

知らないことは、ある意味では無限の可能性があるということもできるのです。

野球やサッカーをしている子どもたちには、みな憧れている選手がいるでしょうし、将来はプロで活躍したいと思ってもいるでしょう。しかし大人になるにつれ、残念ながら己の限界を知ることになります。スポーツや芸術の分野では、特に才能という問題はどうしようもありません。

それでも、終生それらを楽しむことはできるのです。書くことも同じです。作家やプロの執筆者でないかぎり書くことを楽しめます。文章を書くということは、満足することのない終生の修練なのです。

大切なことは、読書術のノウハウを仕入れることより、試行錯誤しながらでも自分に合ったペースや読み方を見つけることです。読むのが遅くても気にしなくていいのです。かの小林秀雄ですら、自分は読むのが遅いとどこかで語っていました。

書くことも同じです。文章術に正解を求めようとはせずに、まずはとにかく書いてみることに意味があるのです。

マーケティングコミュニケーション、それもパブリックリレーションズの業務関係者は書くことを生業としている側面があります。しかし、日記のように自分に向けて書く楽しみの時間がもてればきっとスランプを抜け出すきっかけとなるでしょう。それは同時に、思索する有意義で意味のある時間とすることができます。

ですから、だれかに読まれることを想定していなくても、とにかく書き続けることがとても大切なことなのだというのが私の実感です。

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梅下 武彦
コミュニケーションアーキテクト(Marketing Special Agent)兼ブロガー。マーケティングコミュニケーション領域のアドバイザーとして活動をする一方、主にスタートアップ支援を行いつつSocialmediactivisとして活動中。広告代理店の“傭兵マーケッター”として、さまざまなマーケティングコミュニケーション業務を手がける。21世紀、検索エンジン、電子書籍、3D仮想世界など、ベンチャーやスタートアップのマーケティング責任者を歴任。特に、BtoCビジネスの企画業務全般(事業開発、マーケティング、広告・宣伝、広報、プロモーション等)に携わる。この間、02年ブログ、004年のSNS、05年のWeb2.0、06年の3D仮想空間など、ネットビジネス大きな変化の中で、常にさまざまなベンチャー企業のマーケティングコミュニケーションに携わってきた。