大御所の最新刊です。「ブランド・エクイティ」というコンセプトを創案し、経営およびマーケティングにおいて、ブランディング(ブランド・マネジメント)による戦略論で世界的に著名なデービッド・アーカーについては、マーケティング関係者であればその名を知らない人はいないでしょう。企業でブランドマネジャーの立場あるいはブランドのPRにたずさわっているプロフェッショナルともなれば、アーカーのブランド論いずれかの著書はおそらく読んでいるに違いありません。
この新刊の原題は、“Creating Signature Stories : Strategic Messaging that Persuade, Energizes, and Inspires”(原著:2018年刊)です。
ソーシャルメディアが日常の今日、コミュニケーション、プレゼンテーションなどにおいてストーリーが重要なことは認識されていますし、それに関する数多くの本も見かけます。ですから、すでにそうした関連書を読んでいる人も多いでしょう。
アーカーは、“本書は、このソーシャルメディア全盛の時代に、企業が戦略的メッセージを伝えるうえでストーリーテリングが大きな力を持っていることを論じるものである”と、本書について明言しています。
私自身、ストーリーに関するほかの書を読んでいないので断言はできませんが、本書を特長づけていることがあるとすれば、マーケティングコミュニケーションの視点からだけではなく、経営戦略ならびにマネジメント論(組織論や企業文化など)をも含めた視点からストーリーの意義と価値について著されていることです。もちろん、こうした傾向は本書だけに限らず、アーカーの全著に共通していることも十分にみなさまもご承知なことでしょう。
娘の研究成果に触発される
この新著は、アーカーの娘であるジェニファー・アーカー(スタンフォード大学経営大学院の教授で、マーケティング、心理学と消費行動研究の第一人者)の研究成果に触れたことが、本書の直接的な執筆動機です。
ジェニファー自身、スタンフォード大学院MBAで「ストーリーの力」という人気授業で教鞭を執るほかに、それをベースにしたビジネスエグゼクティブ向けのオンライン講座「イノベーションを加速させるストーリーの力」を開講しています。
ジェニファーは、物語性に関する過去7年間の研究成果から、単純な事実(数字などのデータ)を羅列して伝えることより、ストーリーを語ることの方が圧倒的に人々の心に訴え、理解させ、共感を引きだし、奮い立たせることを実証しました。
ですから、そうした娘の研究に触発されたアーカーは、“事実を意味ある文脈(コンテクスト)へと変える”ストーリーこそが重要さを増しているのだと語ります。
こうした事情もあり、米国では最近、企業におけるストーリーの発掘や発見、創出のため、映画制作者やジャーナリストをスタッフに加えている企業もあるほどで、ストーリー作り支援のための専門エージェンシーも増えていると述べています。企業におけるマーケティング研究部門(Lab)と同様、マーケティングコミュニケーション戦略強化の一環として、こうしたコンテンツ重視の部門や人材獲得には異なる業界の人材が必要であり、そうした米国のマーケティング業界の懸命さや貪欲さをうかがい知ることができます。
「シグネチャーストーリー」とは何か
第1章、アーカー自身がブランドコミュニケーションにおいて、企業の戦略的メッセージを思い通りに伝えることが、その相手が社外か社内かにかかわらず困難であることを熟知しています。それを補うのが、ストーリーの役割なのだと述べます。
シグネチャー(signature)とは、書名、サイン、目印、痕跡などを表す言葉ですが、アーカーは、本書で提唱するシグネチャーストーリーについて、以下のように述べています。
“では、「シグネチャーストーリー」とは何か。それは戦略的メッセージーーブランド・ビジョン、顧客との関係、組織の価値観や事業戦略などを明確化するメッセージーーを伝える、あるいは支える物語である。シグネチャーストーリーは興味をかき立て、人を引き込み、真実味がある。そして、長期にわたってブランドに知名度と活力をもたらし、従業員や顧客を説得し、刺激を与えるものである。”
それほど重要であるにもかかわらず、なぜ多くの企業に広く普及や浸透していないのか。それについて、アーカーは下記の3つの理由を指摘しています。
(1)ストーリーを語るより、明確でインパクトのある事実を伝えるほうが、効率的だと考えている人が多いこと。
(2)オーディエンス(受け手)は、客観的な情報(事実)を受け入れて合理的な判断を下すものだと思い込んでいること。
(3)偉大なシグネチャーストーリーは、発掘するにも創出するのも困難なこと。
アーカーは、優れたストーリーが持つべき「9つの特性」を下記のようにあげ、それらのいくつかが際立っていると述べています。
(1)登場人物への共感
(2)意義ある課題や困難
(3)葛藤と緊張感
(4)サプライズ
(5)感情的な反応
(6)受け手にとっての有効性
(7)わかりやすいメッセージ
(8)ブランドとのつながり
(9)ユーモア
またアーカーは、ストーリー作りにおいて陥りやすい一般的な傾向についても注意をうながしています。それは、事実を取りそろえた一覧(セット)になりやすいということです。どうしてそういうことになるのかといえば、それら事実にもとづくストーリーはコミュニケーション担当者にとって効率的で便利に映るからなのですが、それはオーディエンスにとっては、逆に興味よりも退屈を、真実味より誇張をむしろ感じさせてしまうことになると。
しかも、他社も同じようにセットによるストーリーを提示するので、それらとの差別化も明確でなく、オーディエンスを引き込む力も発揮できなくなってしまうと指摘しています。
つまり、たんに事実を集めて伝えるだけでは、説得力を持たせることはできても、多くの人たちを巻き込みさらに共感までも引き出すことはできないのだと。
ですから、シグネチャーストーリーは、詳細な内容でも網羅的である必要もなく、また短くてもかまわないのだとも語っています。
「シグネチャーストーリー」の作り方
本書は、全9章(約230ページ)で構成され、第2章は複数のシグネチャーストーリーを組み合わせる方法、その効果と課題。第3章はシグネチャーストーリーがブランドの認知度を高め、それがいかに重要か。第4章と第5章ではシグネチャーストーリーが従業員や顧客にいかにインパクトを与え、どのように触発するのか。第6章は顧客、従業員、経営層など、おのおのに訴求するためのシグネチャーストーリーの役割について。第7章ではシグネチャーストーリーの源泉。第8章はシグネチャーストーリー強化の方法。第9章では個人、つまり読者自身のキャリアにおけるシグネチャーストーリーについて述べています。この最終章では、アーカー自身がどのようにして、ブランディングの道へと進み、切り拓いてきたのかが語られています。
アーカーは、シグネチャーストーリーを作る際、複数を用意することについて2つのメリットをあげています。
1つには、興味をかき立てて新鮮さと活気、知名度を高めるため。2つには、中核となるストーリーに深みを与えること。さらに、その相乗効果でインパクトをもたらすこともできること。
ただし、複数といってもシグネチャーストーリーが多すぎるとオーディエンスは飽和と混乱を来すので、二桁以上も用意するのは控えるべきだと忠告をしています。また、話題のテクノロジーや旬なトレンドに依存したストーリーは、持続性がないので避けるべきだとも警告しています。
シグネチャーストーリーにおいて、主役をどれに据えるのか、その候補として下記の「10要素」をアーカーはあげています。
(1)顧客
(2)製品・サービス
(3)ブランド
(4)ブランドのエンドーサー(推奨者)
(5)供給業者
(6)従業員
(7)組織のプログラム
(8)創業者
(9)再活性化戦略
(10)成長戦略
上記のうち、(1)〜(5)は外部、(6)〜(10)は組織内にとって意味あるものとなると述べています。
たとえば、アップルやスターバックスなどは、そうしたシグネチャーストーリーをいくつも持つ代表的な企業でしょう。日本の代表的な企業でいえば、ソニーです。同社は、かつてはどのメーカーよりもイノベーティブな家電製品をつくり出す企業だと思われていました。それは創業者たちのビジョン、製品開発(トランジスタラジオやウォークマンなど)などにまつわる、いまだに語られるさまざまのエピソードなどが、まさにブランド構築の礎となったシグネチャーストーリーなのです。
シグネチャーストーリーの源泉と強化の方法
効果的なシグネチャーストーリーを見つけるあるいは創出するには、2つの源泉があります。
1つは、自前(自社および自社ブランドに基づくもの)のストーリー、もう1つは他からストーリーを借りてくることです。後者は本書で何度も語られているコロンビア(現ソニー)・ピクチャー・エンターテイメントの戦略と企業文化を刷新するため、名作映画『アラビアのロレンス』のアカバ攻略のシーンをストーリーに活用したようなケースです。前者はだれでも考えるでしょうが、後者のように他からのストーリーを巧みに活用する着想には、「その手があったか!」と思わず膝を打つ人がいるに違いありません。
上述した「10要素」のうちどれを主役にするのかは、ストーリーのタイプによって変わるのですが、相互に無関係ではなく重なり合う部分があり、その相乗効果がシグネチャーストーリーをさらに強化します。
いずれにせよ、最適なストーリーを見つける方法は、自社の戦略的なメッセージをしっかりと把握・確認し、複数のストーリー原案を用意して十分に検討し、試して学ぶ(トライ&エラー)アプローチ方法を取ることを、アーカーは提唱しています。
さらに、本書で紹介されている優れたストーリーが持つべき「9つの特性」に基づく望ましいストーリーは、それらの特性を盛り込みすぎることを避け、“突出した”=際立ったものにすべきだと繰り返し強調しています。
語り過ぎないこと、そして独自性の重要性
アーカーは、カリフォルニア大学バークレー校の名誉教授であると同時に、世界的なブランド・コンサルティング、マーケティング企業プロフェット社(PROPHET)の副会長を兼務しています。
本書では、IBM、Skype、Tモバイル、コカ・コーラ、GE、レッドブル、クノール・スープから日本のユニクロにいたるまで、実に様々な業界や企業の事例が豊富に紹介されています。それらの多くは、プロフェット社の実務コンサルティングにたずさわっている人たちの協力から得られています。
さらに、本書でアーカーが語っていることは、BtoBやBtoC、D2Cなどにかかわりがありません。
優れたシグネチャーストーリーづくりにおいて、上記の「9つの特性」と主役の「10要素」を詰め込みすぎて、冗長あるいは散漫な印象オーディエンスに与えることがないよう十分に留意することが肝要ということです。
もしあなたが、メディア関係者またはソーシャルメディア担当者であるとして、毎日大量に接するプレスリリースで単にデータや事実などが網羅されただけの“資料”を受け取ったなら、あるいはプレスリリースと同じような内容を一般のオーディエンスにソーシャルメディアを通じてメッセージとして伝えたとしたら。
または、こう想像してみてください。プレゼンテーション会場で、見事なパワーポイントのスライドによる詳細な情報が網羅的に紹介されている。懇親会などで大勢と名刺交換をしたとき、自己紹介でその会社やその製品とサービスについて一覧表のように詰め込まれた情報内容が語られたとき、はたしてそれで人になにかとくに記憶に残るか興味をかき立てることができるだろうかと。
人はどうしても知って欲しい、関心を持って欲しいという気持ちが強すぎるために多くを語り過ぎてしまいます。しかし、そうして多くを語るあるいは伝えることが、この情報過多な社会で興味を喚起し、さらには人を引き込むほどの力を発揮するでしょうか。おそらく、発揮しないでしょう。
そうしたことについて、昨年の「「プレゼンテーション私論」ーー成功させるために必要な「3つの心得」と「一番重要なスキル」とは」でも述べた「3つの心得」と共通する視点があると思います。
本書を読んで感じるのは、書評でも取り上げた『独自性の発見』(著者:ジャック・トラウト、スティーブ・リプキン)、『ビジネスで一番、大切なこと』(著者:ヤンミ・ムン)と同様な視点や発想で、やはり独自性を創出あるいは発揮できるか否かがとても大事なのだとあらためて感じる次第です。
つまり、“突出した”=際立ったものこそがシグネチャーストーリーなのですが、独自性を発見するあるいは創出すること同じく、決して簡単なことではありません。しかしそれができたならば、その効果はとても大きいということが理解できます。
もちろん、独自性のなかには、その企業や製品にもたらされた偶然の結果、あるいはそれ以外の選択肢がなかったことが幸いしたケースがあるのも事実でしょう。
さらにいえば、かのヒューレット・パッカードの創業者デービッド・パッカードによる「マーケティングは、マーケティング部門だけに任せるにはあまりに重要すぎる」という卓見を、今こそ想い出さずにはいられません。
すなわち、シグネチャーストーリーを創出することは、担当するマーケティング部門だけに任せておけば済むという話ではなく、この課題は全社的に取り組む決意が必要であり、組織体制はもとより企業(経営層と従業員)全体に浸透させ、それを企業文化のDNAにまで高めることが求められるのだ、という厳しい現実をも克服できるか否かです。
本書を読んだ人であれば、それが容易ではない課題だときっと認識するでしょう。しかし、それ以上にその重要性を理解し、決意をもって全社的に取り組むことの大切さについても理解することでしょう。
これからも、テクノロジーの進展につれて加速度的にマーケティングコミュニケーションが拡張または増幅され続けていくことは不可避です。
製品だけではなく、コーポレート・ガバナンス、CSR、コンプライアンス、IR、一般顧客から従業員にいたるまで、幅広く多彩なオーディエンスとのコミュニケーションが求められているCCおよびPR担当者はもとより、一般顧客を対象としている広告やSP部門の担当者にも気づきや示唆が、本書には詰まっています。
さらには、経営者層やHR担当者が読むことで、自社のコミュニケーション力の強化に資するに違いありません。