この記事をお読みくださるみなさんのなかに、書評を読むだけではなくご自身で書かれている方もきっとおいでになることでしょう。
ブログで公開している、「読者メーター」や「ブクログ」などソーシャルリーディングを活用している、自分のためだけに「エバーノート」などのデジタルツールで読書日記やメモ的な備忘録として残しているなど。それは、私的なことあるいは業務上のさまざまなコンテンツ制作のひとつなのかにかかわらず、本についてなんらか(review)を書いている事情もさまざまだと思います。
私の書評は、雑誌メディアなどで目にする一般的な書評とはかなり違っている印象を、ほとんどの人たちが持たれているでしょう。本の内容紹介もさることながら、とにかく分量が多く(長い)、スキマ時間の情報に適したコンテンツとはいえないからです。
それにもかかわらず、多くの人たちに読まれているようでとても励みになっています。私の書評がほかのそれと比べてかなり異なるのは、私が独自の書評ーーそれは「書評エッセイ」と呼んでいますーーを志向しているからなのです。
その独自性を求めてきたことで、2つの悦ばしい出来事がつい最近ありありました。書評を物している人であれば、だれもが著者から直接メッセージや感想をもらうほど貴重で嬉しいことはありません。しかも、海外在住者であればなおさらです。
偶然の出来事というものは、人との出会い、友人からの一言、本の一行などがきっかけとなり、なにかひらめきを得るあるいは開眼するようなことはきっとだれもが経験していることでしょう。
今回、そうしたことについてお話しをします。もしもみなさんにとって、少しでも気づきやヒントとすることができたのならばとても嬉しく思います。
ツイッターがもたらした嬉しい「2つ出来事」
今年3月、一田和樹著の『フェイクニュース〜新しい戦略的戦争兵器』(角川新書)の書評がアップされた数日後、著書の一田さんがツイッターで私の書評を発見してくださり、シェアしてくださったうえに以下のような過分な感想までも頂戴しました。
“かなり深く読んでいただいた上、ご自身の視点で感想を書いてくださったので読みごたえありました。量、質ともにこれまでいただいた書評の中で抜きん出ています。”
思いがけないほどの言葉をいただき戸惑うほどでした。この5月、カナダから一時帰国されたその一田さんと居酒屋で飲みながら意見や情報交換するという楽しい機会にも恵まれました。
翌6月、菅谷明子著の『メディアリテラシー〜世界の現場から』(岩波新書)の書評でも同じことが起こりました。こちらは1年ほど前の記事なのですが、著者の菅谷さんがなにかの偶然からブログを見つけてくださり、ツイッターから下記のようなありがたい評をいただきました。
“メディアの情報の特性を理解し、いかに情報を読み解くか、というメディアリテラシーも市民社会に不可欠。デジタル時代におけるメディアリテラシーまで読み込んだレビューのクオリティの高さに感激しています。”
上記2つの書評について、海外在住の著者お二方によって発見され過分な感想までも頂戴できたことは、私には本当に思いもよらないことでした。
しかも、上記の菅谷さんの投稿を見た一田さんがさらにシェアしてくださり、今度はそのシェアを見た菅谷さんと一田さんお二人の間で、相互に直接コミュニケーションまでも発生することになったことも悦ばしいことでした。
上記の出来事さらにはお二方の言葉から、大いなる励みと自信をいただいただけではなく、私の独自の書評のあり方に、確信をも深めるほどのありがたいものでした。こうしたご縁や出来事は、オープンなプラットファームであるツイッターだからこそだと実感しています。
書評でもっとも重視すること
私は読書が好きなのですがまったくの書評執筆の仕事はしておらず、メディアに溢れている書評もほとんど読むことはありません。
そもそも書評とはいったいなんなのか、インターネットで検索すると書評の定義、その書き方(形式)、書評ブログまで膨大な数がヒットします。書評を書いているブロガーたちも、私と同じように悩んでいるのだとわかりました。そうした事情からか、書評の書き方講座も人気があるということも知りました。
書評が、その本のPRとしても活用されているのはわかってはいたのですが、その要件ーーー発売からおよそ3ヶ月以内の著書、800〜1,200字以内の文章、原則的に「ほめる」ことーーを知るにつけ、そうした作法(書くうえでの制約や暗黙の約束事など)にもとづいた規定演技的書評は、私にはとても難しくてできないことだと悟りました。
とくにビジネス書においては、小説を含む人文学系の書評とは違い、新刊書の内容紹介や読みどころといった情報は、ニュースなどと同じように消費されているからです。変化のスピードが早く、そのときどきの仕事に役立つ知識や情報・ノウハウこそが必要で、ビジネス環境が変化すればそのビジネス書も陳腐化して無用になってしまうので、書評もまたそうしたことを免れることはできません。
したがって、ビジネス書の書評は簡単な内容紹介とすすめる(ほめる)ことなので、新刊書ガイド(案内)というべきものだろうというのが、私個人の考えです。
私がビジネス書の書評を書くとき、新刊・既刊にこだわらずに本を選びます。場合によっては、すでに一般書店で入手できない本を選ぶこともあります。今日ではそうした本でも手軽に入手できる便利な時代だからです。
したがって、上記の一般的な書評の目的である新刊書ガイドには、私のそれは当てはまりません。
選ぶ基準については、前回の書評『神・読書術〜10倍速で読んで、要点だけ記憶する』でも詳しく述べているので、ご興味のある方はあわせてご笑覧を願えれば嬉しく存じます。
「書評エッセイ」の試み
私が書評を書き始めた5年ほど前、あるビジネスパーソン向けのメディア立ち上げにさいして書評を書きませんかと、ありがたいお声かけをいただきました。そのとき、うまく紹介してまとめたつもりでした。
それは、友人からの一言が発端でした。その書評について長い付き合いの友人から「無難で私らしさが感じられない」というような忌憚のない感想でした。それ以降、どうしたら独自の書評とすることができるのか、模索と試行錯誤をずっと続けてきました。
なぜならば、独自性こそ私がもっとも重要視だと考えているからです。
悩みながらも自分なりの書評を書き続けているうち、やはり数十年来の別の友人から「書評を超えた超書評」というメッセージをもらいました。この「超書評」という表現がとても気に入ると同時に、それは重要なヒントとなりました。
しかも、ちょうどこの頃、友人であり目標としているブロガー仲間の「風観羽」の刺激を受けました。彼の創見に満ちた「書評社会学」ーー「東浩紀氏の新著『ゲンロン0』の私なりの読み方」(2017年)ーーは、私には大きな示唆となりましたし、その彼からは「他が追随できない新境地を切り開きつつあるのでは」という、私の書評についての指摘がとても励みになりました。
規定の型にこだわることなく、自分らしい新しい書評を目指そうと覚悟を決めることができたのです。
それは書評をスキマ時間で消費する情報ではなく、読みもの的コンテンツ=エッセイと同じような創作にしたいという志と試みです。約2年半、毎月1冊の書評を継続したことで構成力や文章力も鍛えられ、それが私流書評スタイルを身につけることにさらに貢献したのです。
私の書評エッセイとは、故スティーブ・ジョブズに倣って表せば「書評とエッセイが交差するところに成立する」ということです。
下記の3つの要件を、書評エッセイと私自身は考えています。
(1)書き手の個性は、書評する本の選定にもっともあらわれる
(2)内容紹介だけではなく、著書=著者との対話を通じて得たことを書く
(3)私の関心に引き寄せた内容で、独自性を発揮する
(1)は、ベストセラーや話題の本など新刊ではなく、むしろ書評でも取り上げられないまたはあまり知られていないような本で、私が興味をもったテーマや著書を選ぶようにしています。
(2)は、読書とは著者やその本との対話だと考えているので、そこで語られたことと自分の知見などから、気づきや発見、示唆や浮かび上がった課題などについて書くことです。
(3)は、私はマーケターなので、書評が溢れるなかで独自性がやはり必要だと判断しています。それは、現在の社会の動向などに関連するような情況(情勢)論に引き寄せ、マーケティング的課題との接点を読み手がもてるように書くことを心がけています。
また、どのような人が読むべき本なのか、それについてもできるだけ述べるようにも留意しています。
「差別化」ではなく「独自性」
書評にかぎらず、自分で書いた文章は多くの人たちに読んで欲しいと願わない人はいません。今日、情報取得や閲覧はスマートフォンがあたりまえの今日、スキマ時間や気分転換に消費されるコンテンツは短いほうが読まれる確率は高いことは否定できません。しかも、話題性が高ければアクセス数も稼げます。
話題となっているあるいはベストセラーの書評であれば、多くの人たちに読んでくれる確立は高くなります。普段は本を手にしない人たちが買う本が、ベストセラーになるとはよくいわれることです。その時々の社会状況、人々の関心や気分などの心模様を反映しているので関心も高いわけです。ビジネス書の書評が、たんにスキマ時間に消費される情報であることは十分に承知しています。
それでも、私個人はなんとかエッセイと同じ程度に読み手に感じてもらえる作品としての書評の創出はできないだろうかという、ある意味では無謀な志と試みで独自性を追求しようと決めたのです。
つまり、ほかの一般的な書評スタイルに対してちょっとした違いを出すことで、いわゆる差別化を図るという視点や考え方をするのではなく、ほかとは関係なく「エッセイと同程度の作品として創出する」という着想が、独自性を構築するための大きな要素なのです。
私が型どおりの一般的な書評を書くことを目指していたとしたら、今回の2つ出来事はおそらくなかったように感じています。私の書評のあり方に自信を与えてくれ、さらには「書評エッセイ」への志と試みに確信を持つことができました。
これからも他者がどのような書評を書こうとも、そうしたことにかかわらず書評エッセイに勇往邁進していこうとあらためて感じた次第です。
数年後、書評本がとっくに話題性などとは無縁になったとき、かりに誰かが私の書評を読んだことで気づきやヒントを得ることがあるとしたならば、それこそ書評エッセイスト冥利に尽きるというものです。
最後まで本稿をお読みくださったみなさんに、今回の記事がもしもなにがしかのヒントにくらいに資することがあったなら、このエッセイを書いた意義と価値はあると思います。