いまほど、メディア関係者だけでなく、一般の人たちまでもがメディアについて考え、語り合い、そのかかえている課題についてさまざまに議論している時代はないだろうと思います。
もちろん、これらメディアのなかにソーシャルメディア(SNS)が含まれていることは、いまさら私が述べるまでもありません。
本書を特長づけているのは、世界共通の課題であるメディア不信、ソーシャルメディアとポピュリズムについて現地滞在での取材や経験をふまえ、メディアと社会とについて国際比較研究の視点から、各国の統計データや調査資料をもとにして書かれているレポート(報告書)であることです。
著者は、2016年4月から2017年3月までの1年間、シカゴ、ロンドン、ベルリンに滞在し、実際にそれぞれの国々でメディアと人々との関係やその動向、なかでもトランプ現象といわれたアメリカ大統領選挙、イギリスのEU離脱をじかに肌でふれ見聞し、ポピュリズムが吹き荒れている上記の国々で得たことが執筆に貢献しています。
著者の林香里は大学卒業後、世界的な通信社として知られるロイター通信東京支社勤務をへて、東京大学大学院の社会学研究所で修士を取得し、その後はドイツ留学。帰国後に博士号も取得し、現在は東京大学大学院情報学環の教授職です。
現在の世界的なメディア不信の状況について、著者は以下のように述べています。
“「メディア不信」は、情報の真贋とは別の位相で語られるべき点が多々あり、それはむしろ、現代社会の問題として切り出し、提示し、みなで考えていくべきなのではないかと考えている。”
「メディア不信」のグローバル化
政治、経済、メディア、コミュニケーションなど、さまざまなことがグローバリゼーションにさらされている今日、メディア不信もそうしたうねりに否応なしに飲み込まれています。
メディアのあり方や行く末について、マスコミ(新聞、出版、テレビなど)関係者やジャーナリストだけではなく、メディア研究者、批評家なども著書を数多く著しています。こうした傾向は日本だけではなく、世界的にも共通課題となっています。
本書は、第1章はドイツ、第2章はイギリス、第3章はアメリカ、第4章は日本、第5章はソーシャルメディア、終章はポピュリズムについてそれぞれの章が割かれ、各国の近世のメディアの状況と特性も概観できる内容となっているので、各国のメディア事情についてコンパクトに私たちが知ることができる著書といえるでしょう。
■ドイツ
ドイツは、かつてナチスのプロパガンダに利用された苦い反省から、戦後はメディアについての制度設計が厳格になされ、ほかのEU諸国やアメリカに比べると伝統的メディア(新聞、雑誌、テレビなど)への信頼度はそれでも依然として高いのですが、それが近年の排外主義を唱える右翼やネオナチなどの台頭が著しくなり、そうした活動や運動には「うそつきプレス! 黙れ!」(この場合、プレスとはメディアのこと)を合い言葉にデモや運動が活発化していると。ヴェルツブルク大学の調査結果を引用しながら、著者は以下のように述べています。
“ドイツのメディアは、戦後の「リベラル・コンセンサス」の中で育ち、政治的にリベラルで経済的に裕福な社会の主流グループのものである。そんな様子が窺われる結果となった。”
こうした背景には、メルケル首相が難民(移民)受け入れ続け、保守とリベラルとを問わずに支持または寛容な報道姿勢が、低所得者層(おもに旧東ドイツの地方など)がメディアは政権や富裕層の味方であり、そうした主流メディアは、戦後のエリート層が牽引してきた「リベラル・コンセンサス」が世論形成するための偏向報道だとの印象を与えていると。
それに加え、ベルリンの壁崩壊(1989年)による民族的悲願であったドイツ統一が、むしろ民族としてのアイデンティティ称揚やナショナリズムの活性化につながったとことも指摘しています。
■イギリス
イギリスのメディアは、とくにその人の出身階級により購読する新聞が異なります。つまり、どれを読むかでその人の属する階級がいまでも判断されるのです。
新聞は大別すると、一般紙(フィナンシャル・タイムズ、ガーディアンなど)と大衆紙(ザ・サン、デイリー・メール、デイリー・ミラーなど)があり、後者の方が発行部数は圧倒的に多いという大衆紙のお国柄です。一般紙の合計発行部数と大衆紙の『ザ・サン』1紙の発行部数がほぼ同じほどなのです。
これは欧州全体に顕著なのですが、出身階級ごとに購読する新聞が異なる傾向があるのですが、イギリスはとくにその傾向が顕著です。発行部数(売り上げ)第一主義ということもあり、ドイツとは逆に新聞の信頼度はメディアのなかではもっとも低いという上述のドイツとは大きく異なります。
そうした大発行部数の大衆紙は、EEC(欧州経済共同体)のころから懐疑主義だったそうです。EU離脱以前からメディアへの不信はすでくすぶりつづけていて、とくにサッチャー政権時代にはメディアが政権に荷担してきたことが、社会の分断とメディア不信に大きな影響があると。
これについては、英国の若きジャーナリスト、オーウェン・ジョーンズによる話題の書で私も書評と取り上げた『チャヴ〜弱者を敵視する社会』にも詳しく書かれています。
本書のなかでも調査レポートとして引用や参照され、毎年公表されているオックスフォード大学ロイター・ジャーナリズム研究所の『デジタル・ニュース・レポート2017』では、世論が分極化して社会が分裂している国ほどメディへの信頼度が低いというレポートでの指摘が紹介されています。
なお、同レポート最新版『デジタル・ニュース・レポート2018』に関する記事をご参照くださればと思います。
日本では、長らく新聞の発行部数の多いことが新聞の“名声”の指標であったのですが、英国と同様にどちらかというと質より量だったわけですが、違いは信頼度でイギリスは低く、日本は高いということです。
また、今日の日本ではすでに常識となっているでしょうが、欧州の新聞は一般紙と大衆紙、保守系・左派系など各紙の新聞のアイデンティティが顕著で、国によって程度の差はあっても発行部数とそのジャーナリズムの質は反比例するという考え方が標準となっています。
■アメリカと日本
この両国ついては、すでに数多くの著作もあり、みなさんもよくご存じだと思います。
アメリカでは、実は1991年の湾岸戦争のころから徐々にメディアへの不信について、ノーム・チョムスキー著『メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会』(原題:“Media
Control: The Spectacular Achievements of Propaganda”,
1997年刊)で指摘されてきたのですが、2001年の米国同時多発テロ以降でメディアへの不信はさらに加速していきます。
また、2016年のいわゆる「トランプ現象」は、アメリカにとってはよくないがメディアの視聴率稼ぎや購読者獲得競争には貢献したことで、メディアがさらにトランプを取り上げるという「共犯関係」があったことを著者は指摘しています。
なにごとも市場原理がすべてを支配するアメリカらしく、メディアも例外ではないことを象徴していると誰でもが感じるのではないでしょうか。
今回のアメリカ大統領選挙では、日本でも大きく報じられたロシアとの関係性や司法妨害の疑惑だけではなく、いわゆる「ケンブリッジ・アナリティカ疑惑」という私たちに直接かかわる問題点も浮き彫りになりました。
日本は、上記の国々に比べ、先進諸国の中ではほかの産業と同様マスメディアはもっとも「系列的な支配」が顕著な国です。日本でも、メディアへの信頼感は昨今の「マスゴミ」という言葉で典型的に揶揄されているように年々低下しつつあり、それでも記事自体や内容については信をおく傾向が強く、メディア産業に対する問題意識やかかえている構造的なことへの関心が薄いと著者は厳しく述べています。
日本は、メディアに無関心あるいは無視は先進諸国のなかでは高く、私たちの社会のあり方への意識が希薄なことーーそれは民主主義の根幹にかかわる問題ーーを著者は懸念しています。
こうして4カ国のメディア事情を語りながら、総括的に著者は以下のように述べています。
“新興右翼市民運動から突き上げを受けて、戦後に養った「リベラル・コンセンサス」に基づく報道を見直さざるを得ないドイツ。商売するために党派性を利用して誌面をつくり、EU離脱派のオピニオンリーダーとなる大衆紙と、それに対するEU残留派の強い反発とで混乱が続く英国。新たな嗜好に合わせて新興メディアが次々と立ち上がり、大統領の敵か味方かでメディアも社会も真っ二つに分かれている米国。これら三カ国は、いずれもメディア不信が話題となっているが、その話題の中には市民の姿がある。ところが、日本ではいわゆる特定のメディア企業のスキャンダルや経営予測はあっても、メディアを巡る議論に市民の影は薄い。”
メディア不信の深層ーーポピュリズムとメディア不信、ソーシャルメディアの関係
かつて、メディアは限られた人たちが、その国の情報を社会や世界にむけて情報発信力を手にしているものでした。
インターネットをすべての人たちが手にしたことで大きな転換が訪れ、さらにソーシャルメディアの日常化は公私が混在した情報空間化しています。
20世紀後半に慣れ親しんできたマスメディアと併走してきた「リベラルな民主主義」への憤りと異議申し立てがあることが、今日のメディア不信に大きな影を落としていると著者は述べています。
世界的なリベラルの退潮は、ある意味では必然的ではなかったのかとさえ感じます。
それは、ベルリンの壁崩壊後の自由市場経済が豊かさをもたらす、ソーシャルメディアが多様性と融和をもたらすという道を歩んできたのですが、それはまさしく格言的にいえば「地獄に至る道は、善意で敷き詰められている」にすぎなかったのではないかとさえ感じます。
こうした世界的なメディア不信とそれによる視野狭窄は、経済的な格差、さらにデジタル社会によるメディアの多様化をも孕んだ複合的な問題で、個人、一企業や一カ国だけで容易に解決できる問題ではないように、本書を読んで認識を新たにしなければならないというのがいつわらざる感想です。
メディアに対する不信には、大別すると2つの側面があります。情報を発信するメディア側の問題、それら情報に接している私たちの考え方やその姿勢にかかわる問題です。
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前者は、メディア自体が保守的かリベラルかという主張や姿勢、またその国の政権(権力者)側や社会を支配する層の空気を読むあるいは忖度し、または嫌々ながら圧力に屈することから生じる場合こともあります。後者は、わたしたち各自のメディアリテラシーに深くかかわっていることです。
著者は、世界同時多発的なメディア不信現象において、日本はメディア業界の凋落という業界枠的な問題に還元されやすく、どこか他人事になってしまう傾向があり、新たなメディアのあり方や市民運動や社会運動と接点や展望に発展していかないことについて懸念しています。
それでなければ、私たちは、容易にフェイクニュースにとりこまれてしまうでしょう。
デジタル化の進展は、日常生活のあらゆる面で私たちにメディア環境をもたらし、新しいメディアの生態系を作りつつあります。私たちの日常は、メディアがAlways onの常態で生活しているのです。私がよく口にするDigital
Ambient Societyは同時にMedia Ambient Societyでもあるのです。
20世紀に大きく発展したメディアですが、21世紀にはメディア論ではなく、新たな本格的なメディア学が求められています。それは、提供されるメディアからの情報を批判的に摂取し判断するのと同程度に、私たち自身が発するメディア情報の的確さも要求されています。
情報化社会がより複雑化が進行しつつある時代、あたかも義務教育の5教科と同じように、メディアに関する知識と理解を深める基礎能力が必要不可欠だろうと思います。
本ブログでも、メディアについては下記のように何度か書評でも取り上げています。それは、これに関する昨今の問題の根深さと難しさを感じているからだけではなく、マーケティングコミュニケーションにたずさわる人たちは、この問題に無関心であるまたは関与を拒むことや軽視することはできないはずと判断しているからです。マーケティングコミュニケーションにたずさわる人たちにとって、メディア特性や問題点について知り考えることは、たんに業務上の必要性以上に重要なことだろうと思います。
本書を通じ、メディアとコミュニケーションの双方においてビジネスの行方という視点だけではなく、私たちの社会そのもののあり方が問われているということが理解できます。私たちは、これらについて今後どのように関わるべきなのか、あらためて考えされられます。
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【書評】デジタル・ジャーナリズムは稼げるか〜メディアの未来戦略(ジェフ・ジャービス著:東洋経済新報社)<前編>
【書評】『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか〜メディアの未来戦略』(ジェフ・ジャービス著:東洋経済新報社)<後編>
【書評】『メディア・リテラシー〜世界の現場から』(菅谷明子:岩波新書)
【書評】『フェイクニュース〜新しい戦略的戦争兵器』(一田和樹:角川新書)