メディアリテラシー教育の必要性が叫ばれてかなりたちますが、それと同様これからはテクノロジーリテラシー教育も必要となることを、本書の読者はおそらく感受するにちがいありません。
ここのところ、青山学院大学シンギュラリティ研究所のイベントに参加しているのですが、そうした折、タイムリーにもこの新刊を読む機会がありました。
本書は、MITメディアラボの4代目所長である伊藤穰一が、私たち日本人に覚醒をうながすべく著した新書です。
MITメディアラボーーはじまりは『ビーイング・デジタル』
MITメディアラボは、テクノロジー関係者だけにかぎらず、今日のビジネスパーソンであればいまでは誰でも知るほどの存在です。
それは、2011年に本書の著者である伊藤穰一が所長に就任したというだけにとどまりません。現在では、副所長の一人に「タンジブル・ユーザー・インターフェース」で著名な石井裕教授(日本人初の終身在職権)も在籍しているからです。
その石井教授の話しを聞く機会に、私は一度(5年前)だけ恵まれたことがあります。
さらに、MITメディアラボが2009年に移転した新しい施設(建物)は、日本人建築家の槇文彦によって設計されたもので、そうした点でも日本人にはとても縁の深い研究所です。
日本において、MITメディアラボの存在が脚光を浴びたのは1995年です。当時、このラボを創設し初代所長だったニコラス・ネグロポンティ教授が著した『ビーイング・デジタル』(原著・邦訳ともに1995年刊)が話題となり、日本でもその名が一躍知られるようになりました。
刊行当時、Windows95が発売され、インターネットの商用利用の開始に沸き立つなか、21世紀に向かっての新時代の宣言書のように受容されました。
久しぶりに手にしてみると、「日本の読者の皆さまへ」では以下のように看破しています。
“日本へはもう百回以上行っているが、そのたびに、日本的とはどういうことなのか、自分にはちっともわかっていないという思いを強くする。ただ、日本という国に、デジタルなあり方(ビーイング・デジタル)となじみにくい面があることは、はっきりしている。”
さらに、以下のようにも述べています。
“年配の読者は「わたしにはもう遅すぎる。デジタルとは関わりなしに、満足して生きてるよ。」とおっしゃるかもしれない。それが大きな誤りであるにせよ、ご自身で決められたなら仕方がない。だが、子どもたちは違う。子どもたちには、ぜひともデジタルな生き方を身につけさせてほしい。どうか、それを妨げないでほしいのだ。(中略)学校は楽しい場所でなければならない。子どもを間違った競争に駆り立てて個性を殺してしまうような教育は、もうそろそろ終わりにすべきだろう。”
上記の言葉を読んで、まるで今日の日本人にむけた忠告(警告)のような印象をうけるのは、おそらく私だけではないでしょう。序章の「書物という形式のパラドクス」では以下のようも語っています。
“デジタル録音した音楽でさえ、流通はプラスチックのCDの形で行われ、パッケージングや輸送、在庫のために相当な費用がかかっている。”
この状況がいま、急速にかわろうとしている。これまで音楽は、プラスチックというアトムに録音してから運ばれていた。人の手でのろのろと情報を扱う他の媒体、本や雑誌、新聞、ビデオカセットなども同様である。ところがいまでは、電子的データを光の速度であっという間に、しかも安価に送れるようになった。この形式だと、情報はどこからでも自由にアクセスできる。”
四半世紀ちかくも前の著書ですが、こうした時代情況(風雪)に耐えた書というのは、ほんの数ヶ月で陳腐化するビジネス書と比べ、いまふたたび手にしてみても示唆やヒントに満ちています。もし、1年に1冊でも好奇心を刺激し読みながら興奮を覚えるような書物に(著者)に出会えたなら、それはとても幸運な読書体験でしょう。
上記のような言葉や発言は、一般的には未来への預言(予見)的な扱いを受けるものです。これは、「パーソナル・コンピュータの父」と称されているアラン・ケイ、そしてアップル社の故スティーブ・ジョブズなどビジョナリーといわれている人たちもそうですが、かれらの発言は私がもっとも重視している洞察力の賜だろうと思います。
ちなみに、MITメディアラボ前3代目の所長のフランク・モスの著書『MITメディアラボーー魔法のイノベーション・パワー』(原題:The Sorcerers and Their Apprentices/2012年早川書房刊)では、イノベーションについて以下のように述べています。
“人々はよく「発明」(インベンジョン)と「イノベーション」を同じ意味に使うが、実際にはまったく別のものだ。「発明」とはそれまでにない革命的なテクノロジーを考え、生み出すことだが、「イノベーション」は実行に移し、利用する方法も見いだすことも含む。つまり、ロボット・ホイールやシティカーは見事な「発明」だが、その発明を実験室に閉じ込めておくのではなく、実世界で利用にできるようにすることが、真の「イノベーション」なのだ。”
上記のモスの言葉に、ほとんどの人たちは思わず膝を叩いて得心するでしょう。
なぜ、「教養」としてのテクノロジーなのか
20世紀のテレビの登場が、その後の世界中の人々のライフスタイルを変えたのと同様、21世紀におけるスマートフォンがすべてを大転換させたと、後世の歴史には書かれるでしょう。
なぜなら、スマートフォンの登場により、本当の意味で個々人が“Always On(常時接続)”の生活を手にすることになったからです。
著者は以下のように述べます。
“テクノロジーはもはや「一部の人たちのもの」ではありません。(中略)
もちろん、「多くの人々が技術的な仕組みを理解すべきだ」というわけではありません。むしろ、その背景にある考え方、すなわち「フィロソフィー(哲学)」として理解をすることが不可欠となってきました。これまで「教養」と呼ばれてきたレベルで、テクノロジーについて本質的な理解が必要となったのです。”
先日参加したシンギュラリティ研究所の中島聡さんのも、すべての人がプログラムを学ぶ必要性はないが素養として知っておくべき、というような発言がありました。
本書は、第1章から第5章までは、そうしたテクノロジーがもたらす社会や経済そして私たち自身の生き方まで大激変することについて、第6章と第7章が日本および日本人に向けたメッセージとなっています。
「テクノロジー・イズ・エブリシング」の限界
「スケール・イズ・エブリシング」というシリコンバレー的発想は限界なのだが、「テクノロジー・イズ・エブリシング」も同様だと語ります。
その考え方の根底には、テクノロジーが人類の抱えている問題をすべて解決してくれるという技術進歩への過剰な無謬性があり、そうした考え方を著書は「シンギュラリティ教」と呼んでいます。
人間の仕事がAIに代替されてしまう社会を想定し、「ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)」ということが注目されています。これについては財源をどうするのか、社会的な富の再分配など超えなければならない多くの難問が残されています。
しかし、それ以上に人間にとって働くとはどういうことなのか、どういう意味があるのかという根源的な問題「ミーニング・オブ・ライフ」を人間に突きつけるでしょう。
お金を稼ぐこと、生産性を高めることなど、経済効率性(利益重視)による従来の資本主義的な考え方ではなく、自分の価値を高めるための働き方をどうするのかという発想が不可欠となるでしょう。働き方だけではなく、人間の価値や社会での役割などが根本的に変わる可能性も否定はできないでしょう。
著者は、「新しいセンシビリティ(感受性)」と呼んでその必要性を説いています。
私が本書で面白いと感じたのは、障害者のためのパラリンピックがテクノロジーによる人間拡張(Human Augmentation)の競技となったとき、倫理的な問題が浮上してくることに言及していることです。
この第4章(「人間」はどう変わるのか?)では、これからの都市のあり方、モビリティとしての自動運転車、ローカリティの問題など、上述した中島聡さんが講演のなかで語っていたテーマが取り上げられています。
仮想通貨と「イニシャル・コイン・オファリング(ICO)」
最近なにかと話題の仮想通貨ですが、著者は1995年から関わりがありーーそのころはデジタル・キャッシュ、eキャッシュと呼んでいたーー、私は本書を読んで思いのほか仮想通貨に長い歴史があることを知りました。
もちろん、その当時の仮想通貨と現在のそれとでは大きく違います。1990年は新しいサイバー空間(国)には新しい通貨が必要という「理念優先」でしたが、現在のそれは「利益優先」になっていると指摘しています。それは、シリコンバレー流「スケール・イズ・エブリシング」に取り込まれていることを指摘しています。
それを象徴するのが「イニシャル・コイン・オファリング(ICO)」で、スタートアップにとって資金調達の新たな方法として急速に普及しているそうです。
ただし、このICOはあまりにも新しすぎてルールなどが未整備であり、発行者は似て非なるクラウドファンディングと主張し、購入者は証券にちかいものだという認識のギャップがあることです。
著者は、現時点でのICOには否定的です。それというのも、現状では被害者が出るような仕組みのうえに成り立っているからだそうです。斬新すぎるというのは、いつの世でもすぐには受け入れられないものですし課題も多く残るものです。
しかし、そうしたハードルを越えることもまたこれからの人たちに課せられたことです。すでに、YコンビネーターではICOの健全化を目指すための取り組みとして、SAFE(simple agreement for future equity=将来の株式に関するシンプルな合意の頭字語)を進めているとのこと。
著書は、現在の仮想通貨やICOへの熱はバブルと見なしており、いつかは弾けると見ています。しかし、そうした過程を通じて残ったものが社会に受容されるのだとも語ります。これらにはガバナンスが必要なのですが、従来のような国家(政府)による規制や干渉になってしまっては意味がなく、地球規模的な機関(例えば、ICANNのような非営利の民間団体)などが理想と想定しています。
また、新しいテクノロジーが過剰な金儲けに走らないよう、非営利にちかいMITメディアラボのような機関だからこそできる貢献というものもあると。
本書が私たちに語りかけること
最後の2章(第6章と第7章)は、私たちに日本人や日本社会に向けて語りかけています。
著者は、これまでにも大企業や官僚組織とのやりとりをしてきた中で、数多くの問題に直面してきました。
なかでも、最大の問題は意思決定が遅いことだといいます。これには私も同意します。これまでにも様々なビジネスシーンで、スピードが求められている状況なのにもかかわらず、先方の意思決定や判断が遅くて驚くような経験を何度もしました。
かつて、新興国として経済発展のめざましいベトナムの経済政策担当者が来日したさい、日本企業に関心をもってもらい積極的な経済支援や進出したいというのはありがたいが、もっと意思決定の早い企業に来てほしい苦言を呈されたほどです。
また、その場の空気に支配されすぎることも述べています。もちろん、空気を読むということが重要な状況もあるでしょうし、海外ドラマを見ていると「空気を読め」(察する心)というセリフもあるほどです。これは、米国人に限らず人間であればだれでもその場の空気を読むことが必要なこともあります。
しかし、日本人は企業や組織内の重要な意思決定などにおいてもこの空気を読むこと(それは察するというより無言の同調圧力)が極端に作用し、それにつき従う傾向が顕著だという欠点があるというのも事実です。
現在の日本は、2020年に開催される東京オリンピックに沸き立っていますが、重要なのはむしろポストオリンピックであると著者は述べています。オリンピックを契機に、新しい文化やムーブメントの芽をつくり出すことができず、結局はインフラや建物がきれいに整備されただけ、あるいは一時的な景気浮揚に終わっただけになってしまっては意味がないということです。
政治や経済など、社会全体のシステムが硬直したままでは新しい文化や芽を生み出し育むことはできず、人々のマインドセットが重要だと語ります。
2017年、著者はティム・オライリーとMITプレスブックストアで対談を行いました。そこで、かつてテクノロジーに対しては楽観的だったが今日ではより複雑になっていること、株主に利益還元することだけを最大の目的としたこれまでの資本主義的なあり方から次への段階へと進むべきこと、シリコンバレーだけでイノベーションが起きているわけではなく、また現在では強欲な金融主義的なウォール・ストリートのように見えることなどを話し合ったとのことです。
同じく昨年、著者は「還元に抗う:機械との複雑な未来を設計する」という記事を書きました。AIがもたらすシンギュラリティが到来した社会になっても、それで私たち人間が抱えている問題がすべて解決されるわけではなく、テクノロジーは万能薬ではないと。
著者は、テクノロジーへの過剰な期待をいだいていませんし、いたずらに悲観的でもありません。その可能性と大いなる未来へのパースペクティブから語っています。ブーム(一過性)や状況に踊らされるのではなく、いまこそ根源的かつ本質的に考え議論しはじめるべきことを説いています。
いまの日本は、未来ある若者たちには確かに希望を見いだしにくい社会だといわれていますし、それを否定できるだけの材料を提供することが、残念ながらいまの私にはかないません。
それでも、そうした若者たちに対しても諦めることなく、自分たちの可能性と明るい未来への展望を持ってほしいものだと、私は本書を読みながら心より願うものです。