本書は、スタートアップのために書かれました。しかし、それに限らず中小から大企業まで、マーケティングコミュニケーションにかかわる人たちーー戦略立案、PR、ウェブ制作、SEO/SEM担当者からエンジニアまでーーに役立つでしょう。
本書は250ページあまりと薄いですが、私も具体的な事例を通じた実践的な著書はあまりお目にかかっていませんし、これまでの書評本の中ではもっとも実務に直結しています。机上に1冊おいて、業務遂行のさいに常にチェックリストとして利用すると有益でしょう。
著者のひとりがガブリエル・ワインバーグで、個人情報保護とユーザー追跡を記録しない新しい検索エンジンとして2009年創業のDuckDuckGoの創業者兼CEOです。
同検索エンジンは、私もデフォルトでは使っていませんが第二検索エンジン(第三がBing)として利用しています。
2014年のiOS 8からは、標準検索エンジンとしても選べるようになったことでも話題となりました。
ワインバーグはシリアルアントレプレナーです。同検索エンジンの前にはOpoboxを立ち上げて売却し、さらにはエンジェル投資家として10社以上のアーリーステージ企業に投資し、そのうち2社のイグジットに成功しています。
共著者のジャスティン・メアーズも同様で、いくつかの起業を経験しています。
そうしたふたりが著したのが本書です。本書はマーケター向けですが、テクノロジー関連の書籍出版社として知られているオライリー・ジャパンからの刊行です。
「トラクション」とは
トラクションとは、「つかむ」つまり顧客獲得を意味しています。スタートアップとエンジェル投資家をつなぐプラットフォームである米AngelListの定義によると下記です。
“トラアクションとは、基本的には顧客獲得需要を表す定量的な「証し」のことです。[最初のトラクションは、]企業向けソフトウェアで言うならば、最初にそのソフトウェアに対してお金を払う2〜3社の顧客であるといえるでしょう。コンシューマー向けのソフトウェアであればその基準はおそらく数万程度のユーザーでしょう。”
本書では、40人以上のスタートアップ創業者(Dropbox、WordPress、Evernote、Hubspotなど)、VCへのインタビュー、さらには調査を加え、B to C、B to Bにかかわりなく、繰り返し適用できる顧客獲得するためのエッセンスについて語っています。
スタートアップ企業は、19タイプのチャネルからトラクションを獲得していることを確認し、それらをトラクションチャネル(マーケティングチャネル)と呼んでいます。
「ブルズアイ・フレームワーク」ーートラクションの課題と戦略
著者たちによれば、2つの発見があったということです。
1つは、経験値からどうしてもなじみのあるチャネル(SEMやPR)に偏ってしまい、ほかのチャネルに対して近視眼的になっていること。
2つめは、事前に最適かつ効果的なチャネルは、経験値による推測や予想はできても実際にテストしなければ判断するのは難しいということ。
それというのも、19ものチャネルを検討するとなると、どのようにリソースを集中させるべきチャネルを選ぶべきか実に煩雑な作業です。
そこで、本書ではまず「ブルズ・フレームワーク」ということを提唱しています。これは、製品開発における「リーン・スタートアップ」に相当するもので、成功するための集中すべき1つのチャネルを発見し選択するためのプロセスとして下記の5つのステップで構成されます。
(ステップ1)ブレーンストーミング
(ステップ2)ランク付け
(ステップ3)優先順位付け
(ステップ4)テスト
(ステップ5)リソースの集中
上記のステップにおいて、「テスト」結果が思わしくないとき、最初から同じステップを繰り返し、他を圧倒するある1つのトラクションチャネルを導き出すまで反復します。ここでも「これも、それも、あれも」ではなく、フォーカスすることの重要性が説かれています。
ここで大切なのは、製品開発の後ではなくそれと同時並行でチャネルのテスト時間も割くことだと強調しています。トラクション獲得は、製品開発と同程度の重要性があり、その市場性(受容性)の確認作業は成功へのキーだと。
スタートアップが犯す一番の間違いは、製品開発と平行してトラクション獲得をしようとしないことだと著者たちはいいますが、これはスタートアップに限らずどのような企業の製品開発でもいえることでしょう。
米国のスタートアップでは、エンジニアと同様にチーム内のきちんとしたマーケターが大きな存在で、製品もさることながらトラクション戦略も判断材料になると一時帰国したシリコンバレーのベンチャーキャピタリストから話しをうかがったことがあります。
要するにとくにスタートアップでは、製品・サービス開発とマーケティングに50:50で取り組むことが必要だと。
さらに、チャネルは遅かれ早かれ陳腐化しやがて飽和状態となるので、ステップに基づいて小規模(狭い範囲)でのテスト繰り返すことが、競争力を維持することにつながるとも語っています。
そして、経験からなじみがないあるいは不案内、また否定的な印象があるチャネルという理由だけでテストしないことは、先入観でありトラクション獲得のための妨げにしかならないと釘を刺しています。
19のトラクションーーその手法とは
「ブルズ・フレームワーク」の説明やその心構えなど(第1〜第5章まで)を語ったあと、いよいよ第6章からは19のトラクションについて個別に紹介しています。
19すべてについて精通している人などはいないので、あまり関心がなかったり役に立ちそうもないという先入観をもたず、実際にインタビューした人たちの言葉とともに読みすすめるとよいでしょう。
その19のチャネルとは、下記の通りです。
(1)バイラルマーケティング
(2)PR
(3)規格外PR
(4)SEM
(5)ソーシャル/ディスプレイ広告
(6)オフライン広告
(7)SEO
(8)コンテンツマーケティング
(9)メールマーケティング
(10)エンジニアリングの活用
(11)ブログ広告
(12)ビジネス開発(パートナーシップ構築)
(13)営業
(14)アフィリエイトプログラム
(15)Webサイト、アプリストア、SNS
(16)展示会
(17)オフラインイベント
(18)講演
(19)コミュニティ構築
本ブログの読者であれば、上記のなかでもとくに(2)と耳なじみのない(3)、それと(8)、(11)もPR関連トラクションチャネルとして扱われています。
(2:PR)では、特にスタートアップにとって、American Apparelの元マーケティングディレクターが語っているように大手メディアへのアプローチは最適解ではないというのは頷けます。
私のベンチャー時代の経験からも、無名のスタートアップ(と中小企業)を大手のメディアがニュースとして取り上げることはほとんどないということです。まずは業界紙・誌などやそうしたことに詳しいブロガー(特にインフルエンサー)など“狭い範囲”に注目されることが先決で、そこから大手メディアの網(記者や編集者の目にとまる)にかかることです。
(3:規格外PR)は、2つの種類があります。1つは「パブリシティ・スタント」です。これは、メディアの耳目をあつめ記事化しやすいようにする施策です。とにかく奇妙だったり想像しないような目立つことを仕掛けることですが、これはいわゆる瞬間風速で話題専攻になりがちなので注意が必要です。
2つめは顧客への感謝です。例えば、手書きカード送る、顧客だけが入手できる商品、感謝のための顧客限定のリアルなイベントを開催するなどし、そうした顧客をエバンジェリストに育成・醸成する有効な手段とすることです。
(8:コンテンツマーケティング)で、難しいのは「ライターズブロック」だとのことです。この言葉もはじめて知ったのですが、突如として記事が書けなくなる一種のスランプ状態のことです。そうした場合には、顧客の声に傾聴しそこから記事を考えるとよいとのアドバイスです。
(16:展示会)は、いきなり参加するのではなく、その前年に一般訪問者として展示会に参加しイベント来場者の特性や会場全体の雰囲気を、自分自身で実際に体験しておくことが重要だと。
(17:オフラインイベント)は、小規模なミートアップ(自社開催含む)から大規模なカンファレンスのスポンサーシップになるまであります。とくにスタートアップは、初期段階においてオフラインで顧客と直接話しをしてその課題を知ることは重要です。
(18:講演)は、上記の展示会やオフラインとも関連しますが、そうしたイベントで講演(スピーカー、プレゼンテーター)を努めることです。オーディエンス(参加者)に直接伝えることができ、プレゼンの修練、懇親会では個々の人たちと直接対話することもできます。これは「古き良き教育手段」という表現がぴったりです。
(19:コミュニティ構築)において重要なことは、ユーザー同士のつながり(交流)を促進することで、決して囲い込むとか自社の宣伝目的が露わにならないようにすることです。そこからエバンジェリストやアンバサダーを醸成または育成することができます。これについては、「指令!「愛」を獲得せよーーアンバサダーマーケティングは21世紀的な囲い込み戦略か(本論)」(ITmediaマーケティング)のなかでも述べていますので、ご興味のある方はあわせてご笑覧願えれば嬉しく思います。
もちろん、本書で取り上げられている各種サービスやテクノロジー、豊富な事例は米国マーケット向けのものです。こうした著書は、その着眼点や考え方(フレームワーク)などのエッセンスから気づきやヒント、さらには適宜挿入されている人たち(創業者、マーケティング責任者、ジャーナリストなど)の言葉から様々な示唆を得ることができます。
もし、グローバルに展開する製品やサービスであればそのまま役に立つでしょう。国内の場合、日本でのサービスやプラットフォームに置き換えて考えることができるでしょう。アフィリエイトであれば、例えばA8.netやバリューコマースなどです。
また、上記に特に項目としてはありませんが、ホワイトペーパー、インタビューや対談に応じる、メディアへの執筆や連載、書籍の出版という手法も効果的でしょう。
本書は、米国の事情や事例ながら、マーケティングコミュニケーション関係者には様々なヒントや気づきを与えてくれるでしょう。