様々な人たちとのお付き合いや社会生活で交流=社交なかで、私たちはルール、マナー、エチケットなど、社会人としての発言や行動するときの基本(基準や規範)を身につけていきます。
オンラインでのお付き合いも特別なものではなく、こうした現実の社会とまったく同様です。
今日、ソーシャルメディアが日常化し、情報リテラシーについて各方面からその必要性が説かれています。昨今ではソーシャルメディア上での何気ない発言や投稿が炎上するニュースに接することも多く、そうした状況から本ブログ第1回目の書評ではそれに関連した書籍を取り上げました。
今回、誰もがオンラインでのコミュニケーションする時代だからこそ、あらためて「デジタル・マナー」というものについて考えてみましょう。
「デジタル・マナー」というと、みなさんが真っ先に思い浮かべるのは社会問題化している「ながらスマホ」でしょう。駅のホームからの転落、階段の踏み外しなど事故も多く、これは国内だけに限らず世界的にもSmartphone Adiction(スマホ中毒)という言葉であるほどです。
ここ数年の自転車利用者の急増と事故の多発により、地方自治体によってはすでに「自転車保険」が義務づけられているほどですが、「ながらスマホ保険」にも同様に保険加入が必要とのニュースが流れたら、ジョークやフェイク・ニュース、エイプリル・フールではなくとも思わず本気にしてしまいそうなほどです。
将来、スマホの新規加入や機種変更時にはこの保険への加入が義務づけられるのでは、と感じるほどの光景をあちこちで見かけるでしょう。
冗談はさておき、デジタル・マナーというと私がどうしても気になることが2つあります。それはSNSの「無言リクエスト」と「公共でのキーボード騒音」です。
なくならないSNSの「無言リクエスト」問題
SNSなどでつながりクエストを送るとき、メッセージなしでただリクエストのみ送信する人たちがいます。おそらく、みなさんも受け取った経験があるでしょう。これは、面識があるか否かにかかわりません。
なにかの集まりなどで名刺交換をして面識を得たあとでリクエストを送る場合、そのときの話しや内容について一言メッセージを添えてあるだけでも印象は随分と違います。なぜならば、ほとんどの人たちはメッセージなしの無言リクエストをただ送る人がほとんどだからです。
現実社会で人と出会ったとき、挨拶や自己紹介もせずいきなり「友達になりましょう」という人はいないででしょう。
なかには、実際に会ったその場でスマートフォンからメッセージを送る人もいますし、「後ほどフェイスブックの友達リクエストを申請してもよろしいですか」と丁寧に確認する人もいます。そうした場合は例外ですが、それでも縁を得たことなど一言添えたメッセージがあるだけで、この人は社会人として礼儀作法を心得ている人だなと好感を与えることは確かです。
面識がない場合、私の投稿を見て多分リクエストを送ってくるのだろうとは思いますが、一面識もなく共通の友人は数人ほど、挨拶などのメッセージもないとなると、なぜこの人は私にリクエストしたのか、という理由がまったくわからず本当に困惑してしまいます。 もちろん、私になにがしかの興味なり関心を持っていただいたので、リクエストをありがたいことに頂戴したのだろうということは推察できます。
ですから、相互承認が必要なSNSでは直接面識のある人のリクエスでなければ承認しない、というポリシーで利用している人もいます。
私は、これまでにもsocial mediaとは日本語にすれば「社交メディア」であると繰り返し述べてきました。元々の語源は「協会(association)」とか「クラブ(club)」というような意味を含意していた歴史的な経緯があり、今日的な感覚での「社会」という意味で使われるようになったのは、いわゆる“国民経済”(統一的な国内市場圏)の形成期となった18世紀半ば以降のことだといわれています。
つまり、ソーシャルメディアとは様々な人たちと出会い、交流やコミュニケーションを楽しむ社交と理解し、そうした姿勢(心構え)で参加(運営)すべきだということです。たんに情報共有やバズ(拡散)目的の手軽なツールの1つと安易に手を出せば、ほかの人たちからそうした行為は見透かされてしまうことでしょう。
ところで、1980年代の消費社会論ブームのなかで、名著の誉れ高い『柔らかい個人主義〜消費社会の美学』(1984年刊:中公文庫)の著者、劇作家で批評家の山崎正和が『社交する人間〜ホモ・ソシアビリス』(2003年刊:中公文庫)という社交についての深い洞察に満ちた著書の中で、人間的営為の本質を社交とみなし以下のように述べています。
「現象として見れば、社交の時間は人が適度に緊張を保ってくつろぐ時間であり、社交の場所はなかば公的な形式を備えた私的空間である。社交する人間は、労働の要求する固い、時間割から解放され、しかしなお一人きりの休息が与えられるじだらくはゆるされない。一方で自由に選んだ親しい仲間に囲まれながら、他方ではその仲間が暗黙のうちに強制する規律に従わなければならない。いいかえれば、時間も空間も、友人仲間を囲い込むために閉じていなければならず、同時に第三者を受け入れるために開かれていなければならない。この二重三重にも矛盾した要求を満たすために、人類は歴史のなかでさまざまな工夫をこらし、習慣的にも制度的にも特別の時間と空間をつくりあげてきた。」
もちろん、上記は歴史学的・社会学的かつ文明論的に考察した実際の社会における社交には違いないのですが、社交という言葉の代わりにSNSやコミュニティなどと入れ替えてみると、それはまるで今日のオンラインについて語っているかのようです。
私自身、なにがしかのご縁はありがたいと思っていますので、面識があることをリクエスト承認の前提条件としてはいません。直接面識がなくとも理由さえ納得できれば、そのリクエストは承認することにしています。
なぜならば、むしろ、そうした縁やつながりを可能にすることこそがSNSの重要な利点でもあるからです。とくに遠隔地(地方や海外など)にいる人たちとは、直接面識を得るというのは現実的には難しいことです。
それに加え、コミュニケーションが疎遠で何年も会っていない人の場合、その人とどのような機会に縁があったのか思い出せないこともあります。
しかし、そうしたときでもメッセージがあればどういう集まりや場で出会ったのかを備忘録として残しておけるでしょうし、それで記憶が甦るという大きなメリットもあります。
とくに、広報やマーケティング担当者など、メディア関係者をはじめとして多種多様な人たちと会ったりつながることが業務となっている場合、こうしたメッセージを添えることは非常に役立ちます。
増える公共の場での「キーボード騒音」問題
各種の集まりやイベントに参加すると、PCでメモを取る人は年々増え続けています。そこで、キーボードによる騒音という新たな問題がにわかに浮上してきました。
あるセミナーに参加したとき、講師が話を始めると周辺の何人かが一斉にキーボードを打ち出しました。どこかのメディアの記者やライターが記事にするためなのでしょう。あるいは個人でもツイッターに逐次アップする、あとでブログに投稿するためかもしれません。
しかし、十数人が一度にPCキーボードを打ち出せば、あちらこちらからカチャカチャ音が鳴り響いてそれは一種の騒音ではないかと感じました。
街のカフェや電車内でもノートPCでメールや文書作成する人たちを日常的に見かけます。
手書きメモだと、どうしてもあとになって書いた内容を入力する作業は非効率なので、多忙なビジネスパーソンであればなおのこと、少しでも時間を節約して効率的に処理したいという心情は十分に理解できます。
すでにセミナーなどではノートPCでメモを取ることを禁じているところも出始めています。どうしてもデジタルでメモを取る場合、スピーカーや周辺の人たちに迷惑にならないようPad(タブレット)端末のように音がしないものにする気遣いは必要ですね。
企業側も、こうした取材記者にはPad(タブレット)端末を全員に支給すべきでしょうし、個人でもこうした公共の場ではPC利用を控えるべきだと感じます。
または、メーカー側もそうした状況でノートPCを利用する人たちのために、打鍵音のない無音キーボードを開発すべきではないかと感じます。
ですから、そのほかにも理由はありますが、私はいまでも手書きによるメモする主義なのです。
もっとも、こちらの騒音問題は「ながらスマホ」に比べれば、事故のような危険性はないでしょうしそれほど長い期間の問題ではないと個人的には考えています。
それというのも、ほどなくPCは特殊な人たちが利用する端末になるということは避けられず、このキーボード騒音問題はどのみち解決をみるでしょう。
そうしたことについて、私はすでに10年ほど前にブログにしましたので、ご興味のある方はあわせてご笑覧が叶えば嬉しく思います。
デジタル社会の今日、各種デバイス(特にスマホ)は仕事やコミュニケーションしていくうえでは特別なものではなく、日常生活でプライベートな状況で無意識的に利用しています。この状況こそが本質的な意味でのデジタルネイティブ社会だと私は考えて歓迎しています。
だからこそ、この「デジタル・マナー」が大きな課題として浮かび上がってくるのです。
公共空間においてはTPOに配慮し、より意識してその利用方法や振る舞いには十分に気を配りたいものです。
マナーやエチケットが守られない状況が続ければ、結局いつかはルール化や厳しい規制をかけざるを得ない状況になってしまい、知らず知らずのうちに自分たちで自分たちの首を絞めるような、窮屈で息苦しい社会になってしまうということはいえるでしょう。