前編では、本書の第1部、第2部について述べました。
さて、いよいよ本著書の白眉ともいえる第3部です。
このパートは、邦題にもなっている、今後「ジャーナリズムは稼げるか」否かというこれからの大きな難題は、全420ページを越える本書の中で約半分をしめる分量です。
この第3部だけで1冊の本になるほどです。
もし、この第3部から読みはじめた人がいるとしたら、このパートでインターネット先進国での最先端事情、ビジネスモデルについての数々の成功例や失敗例、いくつか提案されているビジネスモデルについてのポイント、それらを読んで驚くような目新しさ、特効薬の処方箋が語られていないことに、不満を感じたり失望感をおぼえる人がいるかもしれません。
第3部(ビジネスモデル=Models)、それは「マス」(大衆)に向けて同じ情報を流すというこれまでの考え方を捨て、個別にコミュニケーションを取りながら稼ぐこと(ビジネスモデル)が要求される社会であり、メディアも例外ではありません。
ジャービスは、紙メディアは特殊な例を除けば、いずれなくなると判断しています。
デジタル化から逃れることはできないのですが、仮にデジタル化にうまく成功してもこれまでのような高収益は期待してはいけないと釘を刺しています。
しかし、そうはいってもビジネスモデルは限られています。
ビジネスモデルという言葉については、2000年代初頭から半ばにかけて雨後の筍のような「ビジネスモデル特許」本が書店を席捲し、この言葉(とくに特許)のもつ影響もあり一部には誤解があるように私は思っています。
もっとも、今日では少なくともテクノロジー関係者であれば、この両者の区別を十分に理解しているでしょう。
それでは、一般のビジネスパーソンはどうでしょうか。いまでも、両者をいまだに混同している人が一部にはいるように感じます。
4つしかないビジネスモデル
テクノロジーやサービスの仕組み(method)自体はビジネスモデル(model)ではないということです。つまり、MethodとModelは相対的に独立した構造だということなのです。
ビジネスモデルというのは収益構造(いわゆるマネタイズ)のことなのですが、それは基本的にいまだに下記の4つしかありません。
(1)広告モデル
(2)販売モデル
(3)仲介(紹介)手数料モデル
(4)プレミアム課金モデル
上記の(1)〜(3)は、従来からもありオンラインでも様々に存在しているのは同様です。
(1)は、バナーやリスティング広告のほか、なんといってもアフィリエイトプログラム(成果報酬型広告)がインターネット的です。これは広告であると同時に仲介(紹介)ビジネスでもあります。
(2)は、Eコマースなのですが、大きな変化もあります。それは、Subscription(サブスクリプション)モデルです。
これは、月々または年間の定額購読制により読み放題・聞き放題・見放題などのサービスを販売するモデルです。古くはメールマガジン、最近ではいわゆるサロンといわれているメンバーシップ制サービス(会員制コミュニティ)も含まれるでしょう。
雑誌のdマガジン、楽天マガジン、音楽ではSpotify、Apple Music、Google Play Music、LINE MUSICが競い、映像はHulu、NetFlixなどです。
(3)は、情報やサービスのマッチングビジネス全般です。各種オークションサービスのほか、「くらしのマーケット」、「エニタイムズ」などがあります。
(4)は、いわゆる「フリーミアム」というもので、サービスを無料で提供するのですが、より高度な機能や付加価値の高いサービスを受けたい人たちには有償で提供して収益を確保するビジネスモデルで、ソーシャルゲームはほとんどがこのモデルです。
ほかの代表例では、Evernote、DropBox、LinkedIn、クックパッド、NewsPicks、スクーなど実に多種多様です。
私自身は、これがもっとも“インターネット的”なビジネスモデルだと考えています。
しかし、このモデルは、新聞であれば「ニューヨーク・タイムズ」、「ウォール・ストリート・ジャーナル」、「フィナンシャル・タイム」、雑誌では「フォーブス」誌のような、いわゆるブランドメディアを例外にすれば、そのほとんどは成功の見込みは望めないだろうと、ジャービスはシビアです。
こうした翻訳本の事例では、米国と日本とでは事情が異なっている、ローカル新聞と地域コミュニティの関係などは日本とは違うと主張する人が必ずいます。
「ニュース・エコシステム」とは
このローカル新聞とコミュニティのあり方は、私の見るところでは国内の「みんなの経済新聞」(通称:みん経)が、ジャービスの「3つの提案」(人間関係の構築/サービス業的発想/ニュース・エコシステム)をすでに実践しています。
「みん経」は、2000年、広告制作会社の株式会社花形商品研究所が東京渋谷地区の情報を伝えることを目的に『シブヤ経済新聞』としてスタートし、その後、全国各地域の主にウェブ制作会社が花形商品研究所と提携し、ビジネスとカルチャーニュースを伝えるメディアとして続々と開設します。
各々のローカルコミュニティのヒト・モノ・コトをコンテンツ化し、事件・事故やスキャンダルは記事にはしないことも同じで、各地域の「みん経」が直接取材しそれをネットワーク化するのも共通です。
現在では、国内106拠点・海外11拠点で地域経済新聞が発行されていますが、すべてオンラインのみです。
また、こうした各地域の発行元は本業が別にあるので大きく儲けられませんが、地域の人たちとのつながりなどを上手に活用しながら、ジャービスのいう「ニュース・エコシステム」を形成しています。
ただ、コンテンツビジネスについては、その将来性を疑問視し「コンテンツビジネスには将来性がない。他のビジネスの支えがないと続けられない。私が本書を書いた理由はそこにある。」とまで語るジャービスの見解(忠告)を、みなさんはどのように受け取るでしょうか。
本来、それが目的ではないプラットーフォームでも、ニュースに応用できる可能性があり、様々な試行錯誤や実験に挑戦し、それを繰り返し回り道になるだろうがそうした中からしか活路が切り開けないと言い切ります。
だから、メディアはどれか1つだけではなく複数の収益源を確保すべきだと。
さて、いろいろと賛否のあるネイティブ広告(スポンサードコンテンツ)ですが、「羊の皮を被った狼」で、藁にもすがりたい企業にとっての救世主とはなり得ない、とジャービスは辛辣です。
「ニューヨーク・タイムズ」紙、「フォーブス」誌など、ほかのいくつかの成功事例を紹介しながらも、それは記事と広告との境界が曖昧(グレーゾーン)であること自体、人々やコミュニティに不信感を与えてしまうし、メディアが読者より広告主の方を向いていると判断されるという理由からです。
それに本当に重要かつ価値がある情報であるならば、まぎらわしい記事広告の体裁を作ってまで伝える必要があるのかとも問いかけます。
また、ジャービスの調査によれば、記事内容の特性(政治、経済、事件・事故、スポーツ、エンターテイメントなど)により割合に違いはありますが、それでも読者は本当の記事と記事広告とをある程度区別しているそうです。
それでも、ジャービスは記事広告については賛成していません。
「真のデジタル・ファースト」とは
「デジタル・ファースト」という言葉は、これまでのようにコンテンツを作ってオンライン優先で提供し、バナー広告などで収益を上げるやり方でデジタルにしましたというメディア戦略ではなく、旧メディア(紙)の制約から解き放たれて自在に最良かつ最適な情報配信ができるようにすることこそ「真のデジタル・ファースト」なのだと述べています。
こういうことが、将来についていえると私は確信しています。
デジタルネイティブ世代——フリーミアムやサブスクリプションで育った人たちーーが大多数を占める社会となったとき、メディアやコンテンツに対価を支払うのは常識=当たり前だ、という考え方や感覚を今以上に持っているだろうということです。
つまり、インターネット上の情報が“タダだという時代”は、それほど長くは続かないかもしれないということです。
もちろん、それらの情報は価値があるということが前提条件であることは、あらためて述べるまでもないでしょう。
理想主義、リベラルであること、そしてGeek Meritocracy
ジャービスは理想主義でリベラルな人です。今日、理想主義やリベラルな志向性は、世界情勢を見ると退潮あるいは受難な時代です。
しかしながら、歴史を振り返ってみればとくに啓蒙思想以降、人間の進歩や社会に革新をもたらしてきたのはそうした考え方の人々であるように思えます。
ジャービスは、ジャーナリズムを広く定義すれば「コミュニティが知識を広げ、整理するのを手助けする使命」だと熱く語ります。
それは自由主義や民主主義の存在理由の根幹に関わることであり、だからこそ読者自身もメディアリテラシーを高めなければならないのです。
ところで、ジャービスはGeekという言葉が好きですが、それで思い出すのはEvernoteの元CEOフィル・リービンです。
7年前(2011年)、Evernote Japan Meetupにブロガーの1人として幸運にも招待に与りました。
その席で、リービンが“ネットビジネス5つの変化”について語ったのですが、その時の発した言葉がGeek Meritocracyです。
これからの世界(社会)は、そうした人たちが牽引していくのであり起業に最適な時代だと。同様のことをは、社会学者・批評家として知られている濱野智史は「漏れ落ちた人々」と呼んでいます。
私が本書の中で“もっとも印象に残った”のは、ジャービスの以下の言葉です。
「現在、従来のメディアの関係者は、ともかく生き残りに必死で、未来のメディアをどうすべきか考える余裕がない。だが、未来のメディアは、今の私たちが見ても、すぐにそれがメディアだと気がつかないほど違ったものになっている可能性がある。」
この文章を読んだとき、私とまったく同じ考え方や感覚をしているのだなと思いました。私はそうした社会をDigital Ambient Societyと規定しています。
これは、私たちの生活空間すべてがメディア環境になっていて、そこではもはやメディアということを意識しなくとも、情報へのアクセスやコミュニケーションを円滑に行えるようなテクノロジーに支えられている社会のことです。
もちろん、この言葉は私の勝手な概念なのでコンセンサスがあるわけではありません。
一方で、テクノロジーは「ネットワーク化と分断(極)化」をもたらしています。前者の進展が後者をも深化させています。
つまり、ネットワーク化の恩恵で世界中の人たちと広く多様性ある関係(つながり)を可能にした一方、狭く均(同)質の中でも押し込められることがあるのです。すべての人々が情報やニュースに接するのではなく、フィルタリングにより個人の関心など 無意識的に狭められてしまいます。
本書で語られているローカルメディアとコミュニティが生活に深く浸透すればするほど、未来ではDigital Ambient化も加速していきます。
それは、期待と懸念、希望と失望、明朗と憂鬱などの混淆(カオス)が常態化した社会で生きていくことです。
それでも、メディアやジャーナリズムへの未来への展望をなんとか見いだそうとするジャービスです。
ジャービスは私とほぼ同年代であり、大学であれば私の2年先輩です。私は本書を読み進めていくうちに、まるでその先輩と意気投合して愉しい対話をしているように気分でした。
本書の中で、ジャービスがもっとも恐れているのは、広告を出す側(広告主)がメディアを一切必要としなくなったときこそが真に恐ろしいことで、またすでにAIなどの発達でデータから記事を自動生成する時代に入りつつあり、ジャーナリズムにとっても存在意義が問われていると。
本書でジャービスが述べていることは未来への提案であり、あくまでも個人的な意見だとしつつも以下のように語ります。
「これからの時代は、それぞれに対象や分野や地域を絞り込んだ多数の企業で構成されるエコシステムから提供されるようになる。エコシステム内の企業は規模もビジネスモデルも設立理由も様々である。かなり混沌とした状況となり、どのようにニュースを受け取るかは人によって大きく異なる。以前のように、誰もが一斉に同じニュースを受け取るわけではない。しかし、ニュース、情報への需要はこれからもますます増え続ける。」
それは困難な道のりでもあり、ジャービスの受講生たちあるいはその子供たちがそうした未来のニュースメディアを創造することになるだろうとも語ります。
今回の書評は、前後編と2回という長さになってしまい、この後編を最後まで辛抱強く読んでくださった皆さまに心より感謝を申し上げます。
本書では、ジャービスがくどいまでに繰り返し同じようなことを語っているのですが、それほどまでに語らなければ彼の言葉(考え方)は理解されないし思いも伝わらないという切迫感を感じます。
ジャービス自身は、レガシーメディアを見捨てることなくなんとか再生して欲しいと実は願ってはいます。しかしながら、そうしたメディアの延命処置を施すことは語らず、手を貸すこともないのだと。
はたして、ジャービスの言葉はそうしたレガシーメディア関係者やジャーナリストたちに届くでしょうか。
ビジネスパーソンは多忙で、全部(420余ページ)を読み通すだけの時間的な余裕のない人たちも多くいるでしょう。
そうした場合、自分の現在の業務と関係や関心の高い章だけ、あるいは第3部を読むだけでも様々なヒント、多くの示唆が得られるでしょう。
本書は、メディア関係者やジャーナリストはもちろん、それ以上にICT関係者、マーケターや企業経営者(起業家)こそが読むべき本だというのが、私の率直な読後感です。