この本をビジネス書の新刊コーナーで目にしたとき、この邦題からは通常であれば手にすることもなかったでしょう。
帯の惹句「顧客はすべてお見通し」、帯裏面のIDEOのCEOティム・ブラウン、そしてスタンフォード大学ビジネススクールのチップ・ハース教授の「全マーケター必読の一冊」、元Appleのエバンジェリストのガイ・カワサキの「私がここ5年で読んだ本のなかで、もっとも重要な本だ。」など、これら3人の推薦の言葉から購入を決めました。
ソーシャルメディア時代のマーケティングコミュニケーションについての本は、エンゲージメント(きずな)やクチコミ、コンテンツに関する本がこれまではほとんどでした。
本書の扇情的な邦題からするとそのような印象を受けるかもしれませんが、そうした類書とはまったく違います。
今日、様々なものが“シフト”していますが、本書を一言で述べれば「消費行動の意思決定シフト」とそれへ対応を試みています。
消費者の購買行動における意思決定にフォーカスし、そこから新しいフレームワーク=「影響力ミックス」を提示しています。
ですから、マーケター、PR部門やソーシャルメディア担当者やCS部門だけではなく、経営者層からビジネス戦略にとっても得ることが多いでしょう。
原題は、“Absolute Value–What Really Influences Customers in the Age of (Nearly) Perfect Information”です。
「絶対価値」とはなにか
本書の原題である「絶対価値」とは、製品やサービスにおける体験価値の質=絶対価値について、購買行動時の意思決定時に十分満足できる情報価値というくらいの意味で、経済学でいう完全情報と同じようなニュアンスとして語られています。
本書は、イタマール・サイモンソンとエマニュエル・ローゼンによる共著です。
サイモンソンは、スタンフォード大学ビジネススクールでマーケティングの教鞭をとる教授で、消費者行動、消費者心理などの意思決定理論の第一人者で、消費行動時の「妥協効果」で知られています。これは消費者が眼前の選択肢中から中間(例:上中下、松竹梅など)の選択肢を選ぶというよく知られた考え方です。
同スクールでは、マーケティングに関するMBA課程で教えているほか、マーケティングや意思決定分野の研究・学術誌9誌の編集委員にも名を連ねています。
ローゼンは、元広告出身の実務家で、自動車、洗剤、電子機器など幅広い製品分野の広告ビジネスに携わった後、カリフォルニア州のNiles Software社のマーケティング担当バイス・プレジデントに就任。
同社の主力商品であるレファレンス管理ツールEndNoteの立ち上げおよびマーケティングを担当し、同製品を広めた「クチコミ」に早くから興味を持つように。1998年以降、クチコミの研究および執筆に専念するマーケティング研究家。
クチコミが生まれ、広がっていくメカニズムを説き明かし、ビジネスに活かすための手法と戦略につて『クチコミはこうしてつくられる』(2002年:日本経済新聞社刊)を著しています。
これまでのマーケティングの“定説・定石”を疑う作業
10年前、そもそもソーシャルメディアという言葉も「ソーシャルメディア業界」というものも存在していませんでした。
そのころは、CGM(Consumer Generated Media)とかUGC(Use Generated Content)と呼んでいました。それも一般的ではなく、いわゆる業界用語でインターネットビジネスに関わっている人たちだけが使うものでした。
その当時、それらは一部のテクノロジーオタクだけあるいは一過性の現象に過ぎないと見ていた人たちもいましたが、この数年で今日ではだれもが日常的に使うコミュニケーションツールでありメディアとなり、新しい消費行動の意思決定という潮流をもたらしました。すなわち「常時情報収集」、「検索と即断即決」、「合理的な消費行動」です。
かつては「情報の非対称性」が喧伝されましたが、現在では以前とは比較にならないほど豊富でしかも良質な情報が容易に入手可能です。
それが、相対的な情報から絶対的な情報に基づく消費行動へと大転換することになったのです。
<パート1>
(1〜4章)は、消費者の購買行動に大きな変化が起きています。インターネット、とくに多種多様なソーシャルメディアが製品やサービスの「絶対価値」が容易にわかるような時代です。
つまり、多種多様なソーシャルメディア(比較サイト、レビューサイト、ツール類など)の恩恵で価格やスペックだけではなく、実際の使用感・操作感(使い心地など)までもがわかるので、そうした情報に基づいた消費行動をとる社会では購買時点より前にすでに勝負はついているということ。
また、様々な本や論文で、消費者の意思決定が不合理だという主張は徐々に有効性を失いつつあること、さらには多すぎる情報や選択肢の過多による混乱なども同じくよく耳にしているでしょうが、その定説にも疑問を投げかけられている状況について説明しています。
また、研究者にありがちな限られた空間での実験結果と実際の購買環境での各々の意思決定の違いなどが事例を交えて語られています。
さらに、PR関係者であれば、そうした様々なレビューサイトや評価サイトへの不正への懸念もあるでしょう。いわゆるステマやサクラレビューと言われるものです。
これらはどこかで必ずほころびが露わになりそれまで築いてきたエンゲージメントを一瞬で損ない、ソーシャルメディア上で炎上してきた例は枚挙に暇がありません。
加えて、親しい友人、詳しい知人(場合によっては専門家)などもいるので、著者たち二人は必要以上に過敏になることはないと語っています。
皆さんも、例えば、アマゾンのレビューでひょっとして関係者が書いたのではとか、どこかのレビューサイトあるいはブロガーの記事で、そこで提灯記事のような匂いを感じとった経験があるのではないでしょうか。
したがって、割に合わずにどこかで破綻する(「ウソはバレる」)ということなのです。
<パート2>
(5〜8章)は、ブランド価値、顧客ロイヤルティ、ポジショニングなど、これまで企業から提供されていた情報を判断の目安にしていた消費者が、そうした情報拘束から解放されたことで、購買行動時にはそうした企業側の思惑が有効性を失いつつあること。
それは、これまでマーケティングの定説や定石として当たり前に実施されてきた戦略など、大きく見直す必要性について語っています。
つまり、製品やサービスを顧客に提供(販売)しようとするとき、その顧客やカテゴリ別に影響力ミックスに基づいたマーケティング戦略をその都度で調整していくべきだ、というのがこの本の主張です。
<パート3>
(9〜14章)は、もちろん約300ページの半分近くを費やして新しいフレームワーク「影響力ミックス」について書かれているのがこのパートです。
消費行動の変化に対応した新しいマーケティングのアプローチやフレームワークが必要で、これら下記の3つの組み合わせによって決まります。
その3つとは、消費者が過去の嗜好や経験による「P(prior)」、他人や情報サービスからの「O(other)」、マーケターからの情報「M(marketer)」です。
消費者が消費行動を行う際に、これら3つの要因(M・O・P)から各々どの程度の割合で影響を受けるかを表す指標です。
これは、製品・サービスカテゴリによっても異なりますし、年齢や世代によっても大きく違います。
意思決定シフトという視点と影響力ミックスの戦略を提示
本書の著者二人も、ブランディング、ポジショニング、顧客ロイヤルティ、情報過多による混乱、消費者の意思決定における不合理についてこれまでは信じてきました。
2008年、二人は共同でこれからのマーケティングの方向性や将来について本を書くことになり、それまでの定説への信頼が揺らいできたのです。
それからの5年間で、消費者がかれらの主張する「絶対価値」へと変貌していく様を見続けていました。それはちょうど様々なソーシャルメディアの台頭と普及の時期とも符合しています。
著者たちがそれまで信じてきた定説に疑問が投げかけられ、その間を通じて得られた知見を新たな戦略(フレームワーク)として本書を著しました。
もちろん、ここで語られていることすべてが正しいとは当人たちも“うぬぼれてはいない”と自覚していますが、その目的がマーケティングの未来を正確に言い当てることではなく、今後とも変化していく消費者の購買行動と意思決定について考えることを促すことだと語っています。
ところで、この二人の(研究者と実務家)が共同で執筆することになったのは、SNSを通じた「弱いつながり」が出会うことのきっかけとなったとのことで、そうしたこと自体がいかにも今日的なことですね。